東山・清水寺周辺史跡ガイドウォーク
東山・清水寺周辺史跡ガイドウォーク
東山・清水寺周辺史跡ガイドウォーク
京阪電鉄「祇園四条」駅→天明の大火→宮川町花街→恵比寿神社→松原橋→建仁寺勅使門→八坂康申堂→八坂の塔→三年坂(産寧坂)→清水寺→清閑寺→歌の中山→佐藤継信・忠信供養塔
清水寺付近の史跡を巡る楽しいコース。
ジャンル 歴史・神社・仏閣
天明の大火
天明八年一月三十日、団栗橋東詰図子の空家から出火、団栗焼けとも呼ばれた大火。
二日間昼夜に渡り燃え広がり、鞍馬口通から七条通まで、
鴨川から千本通までの神社仏閣、家屋が壊滅、街区の五分の四を焼失、多くの死者を出した。
宮川町花街
この付近は古くから芝居小屋が並び、四条河原での納涼などで賑わった。
寛文五年、鴨川左岸に新堤が出来、宮川町茶屋町が出来、
宝暦元年から遊里として認められ、昭和三十三年まで娼妓が居た、京都五花街の一つ。
恵比寿神社
祭神は「ヤエコトシロヌシノミコト」大国主命の子で建仁寺創建の栄西禅師が入唐の時、暴風に出合い、その時、恵比寿に救われたので、山内に恵比寿神社を建立、一月十日の恵比寿は有名、財布塚や名刺塚がある。
松原橋
平安京五条大路に該当する、室町期、鴨川に架橋し五条橋として清水寺参道となった。
天正十七年、秀吉が方広寺建立の時、参道として六条坊門通に架橋、
これを五条は橋としたため、元の松原五条橋は松原橋となった。従って、弁慶と牛若丸の出会いはこの松原橋である。
建仁寺勅使門
「矢の根門」平重盛の六波羅探題から移築した鎌倉後期の建築、三門とは、禅宗でいう空門、無相門、無作門の三つの解脱に入る門。
八坂康申堂
大黒山金剛寺延命院、本尊は青面金剛で大宝元年庚申の日に降った。日本三庚申の一つ、開祖は浄蔵貴所。庚申とは庚申(かのえさる)の日、身体に居る三尺の虫が寝ている間に天帝に悪口を告げる為寝ずに見張る。
八坂の塔
法観寺、聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めて此処に来ると、夢に如意輪観音のお告げがあり、五重塔を建て法観寺と名付けた。平安遷都以前の寺で、応仁の乱では戦火を免れた。この間幾度の修理を行い現在に至る。臨済宗建仁寺派。
三年坂(産寧坂)
大同三年に開かれた道で、楼門の前に在った子安塔に通じる道、この坂で転倒すると三年後に死ぬという言い伝えがある。
清水寺
音羽山北観音寺、北法相宗、西国三十三観音霊場の十六番札所、本尊は十一面千手観音。延歴十七年、坂上田村麻呂が、此処へ鹿狩りに来て、延鎮和尚に殺生を戒められ、一堂を建立したのが、始まり。京都随一の観光寺院、多くの堂を持つ。
清閑寺
本尊は、千手観音、延歴二十一年、比叡山の紹継が創建、平安中期には勅願寺として広大な敷地を有し、今も清閑寺の名が付く地名が多い、高倉天皇の愛妾「小監局」が此処で出家したので供養塔があり、西郷隆盛と僧月照が密会した場所でもある。
歌の中山
その昔清閑寺の僧で真燕僧都が、門外を行きかう人々を眺めていると見目麗しい一人歩きの女性に俗念をお越し言葉を掛ける為「清水」への道をたずねると、「見る荷駄に迷う心のはかなくて まことの道をいかで知るべし」と答え姿を消した故事に因る。
佐藤継信・忠信供養塔
佐藤兄弟は奥州平泉の藤原秀衛の武者で、付け従った義経の身代わりとなり兄は屋島で戦死、弟は吉野山中で危機を救い七条坊門で捕まり処刑されたこの供養塔は、永仁三年の銘があるが、慶長に地震で一部崩壊、現在は京都博物館にあり、此れは、昭和十五年の復元。