JR奈良線ガイド

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許波多神社(こはたじんじゃ)【宇治市観光スポット/JR奈良線観光社寺仏閣スポット】

許波多神社



京都府宇治市五ケ庄古川に鎮座する式内社です。宇治市木幡の「許波多神社」と共に式内社「許波多神社」の論社です。『延喜式』神名帳には名神大社とあり、古くは非常に有力な神社だったようです。

社伝によれば、大化元年(645年)に蘇我石川麻呂の奏上で皇祖の神霊を奉祀するため孝徳天皇が中臣鎌足に詔して当社を創建したと伝えられています。

『山城国風土記』逸文には祇社として「木幡社」の記事があり、「天忍穂長根命」を祀るとあります。この神は諸説ありますが一般に「天忍穂耳尊」と解され、現在も当社の御祭神として祀られています。

しかし『延喜式』神名帳には三座とあり、他の二座については詳らかでありません。当社では天忍穂耳尊の御子である「瓊々杵尊」およびその曽孫であり初代天皇の「神武天皇」を併せ祀っています。

また『山城国風土記』逸文の宇治の記事には、菟道稚郎子に因みその地が宇治と名付けられる前は「許乃国(このくに)」と呼ばれていたとあります。このことから、当社の社名は「許(こ)」の国の「端」、つまり「許端(こはた)」を意味するとの説もあります。

許波多神社は元々は現在地の東方1.5kmほどの黄檗公園辺りに鎮座し、その地は「柳山」と呼ばれ当社も近世以前は「柳大明神」と称していました。

しかし明治八年(1875年)に陸軍宇治火薬製造所(現 陸上自衛隊宇治駐屯地)の建設のため社地全体が官有地として召し上げられ社地の移転を余儀なくされ、翌九年(1876年)に御旅所だった現在地に遷座しました。

黄檗公園から西に伸びる道はかつて当社の参道であり、そこからJRと京阪の踏切を渡った先に現在も鳥居の基部が残っています。

式内社「許波多神社」のもう一つの論社である木幡地区の「許波多神社」もかつて「柳大明神」と呼ばれ柳山に鎮座していたことが示唆され、元々は柳山に祀られる同一の神社だったのがいつの頃か二社に分かれたとする説もあります。

『山城志』には五箇荘に一座、木幡に二座ありと記されているので、式内社「許波多神社」三座の内二座が木幡の許波多神社に分かれ、残る一座が当社に残ったとも考えられます。

先述の通り柳山に鎮座していた頃の社殿より続く東西2町の馬道で競馬(くらべうま)の神事が行われており、馬場として古くから氏子が南北に分かれて競馬の神事が行われていました。このため当社は馬の神社としても信仰され、競馬ファンおよび競馬関係者の信仰を集めています。

当社では平安時代の鐙(乗馬の際に足を掛ける馬具)が伝わっており、国指定重要文化財となっています。当社と馬の関係の非常に古いことが窺えます。

また、本殿は室町時代に建立された三間社流造の貴重な建築で、こちらも国指定重要文化財となっています。柳山に鎮座していた頃の社殿を移築したのでしょう。

さらに平安時代後期の作例と考えられる男女一対の神像も伝わっており、こちらは京都府指定有形文化財となっています。これとは別に天忍穂耳命とされる鎌倉時代の神像が本殿に安置されています。

このように数多くの文化財を伝える神社でもあり、非常に由緒ある神社であることがわかります。柳山に鎮座していた頃は広大な社地を抱えていたと言われ、当地域有数の神社として大切に守り伝えてきたことが窺えるだけに、近代に至り強制的に移転させられたのは実に惜しいことです。

なお、当社の神は唐臼(シーソー状の杵を足で踏んで搗く道具)の音と鶏の声を嫌ったとされ、唐臼の使用を忌み、鶏を飼うことを避ける風習があったようです。



許波多神社(こはたじんじゃ)【宇治市】

開門時間 参拝自由
宗派
創建 (伝)大化元年(645年
御祭神 瓊々杵尊、天忍穂耳尊、神日本磐余彦尊
住所 京都府宇治市五ヶ庄古川13
旧国郡 山城国宇治郡五ヶ庄村
連絡先
許波多神社へのアクセス 【電車】
JR奈良線JR木幡駅から徒歩約10分
京阪電鉄宇治線で「京阪木幡駅」下車 徒歩8分

許波多神社アクセスマップ

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